古代の聖地を一直線に結ぶ太陽の道「北緯34度32分のレイライン」
世界で数々みられるレイライン。
レイラインとは、古代の遺跡には直線的に並ぶよう意図的に建造されたものがあるという仮説で、日本でも数々のレイラインがあるとされています。今回はその中でも特に興味深いレイラインである、北緯「34度32分の「太陽の道」をご紹介します。
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北緯、34度32分の線上に走る「太陽の道」は、著名な仏像写真家で、古代史の研究家でもある、小川光三氏によって提唱されたものです。
太陽の道は、1980年にNHKの特集で紹介されたことで一躍有名になりました。
その線上には何があるのかというと、古来から太陽祭祀にまつわる神聖な場所が多く、太陽の道と名付けられたのもそれが所以です。
実際に、何があるのかを見ていきましょう・・・。
例えば、大和の日の出の山として信仰される、三輪山の麓にある、大神神社の摂社の桧原神社は、初めて宮中の外で天照大神を祀ったとされる由緒ある場所で、「日原」とも記される太陽祭祀の神社です。元伊勢の始まりの地であり、今でも天照大神を祀っています。しかし、ここは古来から本殿がない社で、拝む方角は聖なる山の三輪山の山頂には向かず、なぜか真東に向かっています。
その向かう先には、泊瀬山があり、いまでは与喜山や天神山と呼ばれていますが、そこは古くから天照大神が出現する山として崇敬され、桧原神社はこの聖なる山を遥拝する場所だったのです。
桧原神社に祀られた天照大神は、日本書紀の記述によれば、ヤマトヒメによって伊勢に遷座されたと記されています。それが伊勢神宮の始まりですが、伊勢神宮の内宮はもともと現在の位置ではなく、三重県多気郡の明和町にある斎宮跡にあったと考えられています。
斎宮とは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性、つまり斎王が住まう御所のことですが、もともとは内宮があった場所で、それが現在の地に遷され、斎宮になったと考えられます。
斎宮跡は天照大神が最初に祀られていた桧原神社と、天照大神が出現するとされていた泊瀬山を結ぶ線の真東に位置しています。
さらに斎宮跡の真東の海上には神島があって、神島はその名が示すように、神の支配する島と信じられていました。
神島は、斎宮の真東にあるので、海岸線が現在よりも内陸にあったとされている古代においては、春分と秋分には神が住まう島から昇る朝日を、斎宮から拝すことができたということになります。
それだけではありません。
桧原神社と神島を結ぶライン上には、奈良県宇陀市にある室生寺がありますが、そこは寺院にもかかわらず、天照大神をあらわす重文の大きな鏡である大神宮御正体があったり、室生寺の古い記録によれば、室生山には大日如来の宝珠があって、これが垂迹して天照大神になったとあります。つまり、今はお寺ですが、その前は天照大神を祀る、太陽祭祀の地だったと考えられるのです。
次に、桧原神社より西側を見てみましょう。
桧原神社の近く、ほぼ真西には、古墳時代初期の前方後円墳、箸墓古墳があり、そこは卑弥呼の墓ではないかとされ、周辺の纒向遺跡を「邪馬台国とする説もあります。
その真偽はさておき、春、秋の彼岸の中日に、箸墓古墳から真東をみると、三輪山の三角形の頂点から太陽が昇ります。
このようにみてみると、古代の人々が、真東から昇る彼岸の太陽を意識して、前方後円墳の位置を定めたのはほぼ間違いないでしょうし、前方後円墳の形も山頂から太陽が昇る瞬間をシンボライズしたのではないかと考えられます。
太陽の日の出は復活の象徴であり、その光が山頂から前方後円墳に降り注がれることで、再生されるという思想があったのかもしれません。
箸墓古墳から更に真西へと進むと、西の陸の果て、大阪の堺市にヤマトタケルを祀る、大鳥大社があります。ヤマトタケルといえば、天照大神を伊勢にまつったヤマトヒメの甥であり、東征に出かけた後、伊勢の能褒野という土地で没しましたが、ヤマトタケルの屍は一羽の大きな白鳥となって、西へ西へと飛んでいきました。そして最後に行き着いた先が、この大鳥大社の場所だったとされています。
白鳥が西へ西へと飛んでいく姿は太陽の軌跡を描いているようであり、その軌跡は、北緯 34度32分の「太陽の道」を暗示しているかのようにも見えます。
そこから更に真西へと進むと、海を越えて、淡路島に行き着きます。
淡路島の東岸に伊勢久留麻神社があり、その西に常隆寺山があって、その山頂部を「伊勢ノ森と言い、頂上には天照大神を祀る石造りの祠があります。
伊勢から遠く離れた淡路島になぜ伊勢の文字があり、天照大神を祀っている祠があるのか。それは古代の人々が太陽の道を意識していたからに他ならないでしょう。
古代日本人の思想
以上のように、北緯 34度32分のライン上には天照大神に深く関係するところが点在していますが、これは決して偶然ではないでしょう。
古代の人々は、太陽が昇る東の海の彼方に、常世国という理想郷があると信じていました。そこは神々が住まう世界であり、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界でもあるという世界観があったのです。
夕方になれば西の彼方に沈み、翌朝に、新たに生まれ変わるように東の海の彼方から昇るサイクルを繰り返す太陽は、古代人にとっては常世国を行き来する、永遠の生命の象徴でもありました。
そういった世界観は伊勢神宮の場所選びにも反映されています。ヤマトヒメが天照大神を祀る場所として最終的に辿り着いた先は伊勢でしたが、伊勢から先は広い海です。
つまり伊勢は常世国に最も近い吉祥の地であるとして、その地に太陽神である天照大神を祭祀する神の宮が設けられたのだと考えられます。
古代の世界において古今東西、太陽は崇拝の対象であり、冬至や夏至を大きな節目として盛大に祝う文化は今も世界各地で残っておりますが、そのあいだの春分や秋分をも大事にするという文化は、日本以外にはあまりありません。
仏教の思想が結びつくことで、春分、秋分は彼岸として先祖供養する慣習が定着しましたが、彼岸の行事は日本独自のもので、インドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、彼岸文化の元は日本古来の太陽信仰や祖霊信仰が起源だろうと推定されています。
民俗学者の五来重氏は、彼岸という言葉は、豊作を太陽に祈願する太陽信仰の言葉の「日の願いが、「日願として、のちに仏教用語の「彼岸と結びついたものであるとしています。
中国三国時代の魏の歴史書である『魏略』の逸文には、弥生時代の日本の様子が記されており、それによれば、当時の日本人は春の耕作開始から秋の収穫までを一年としていたとされています。
その作業の開始時期と収穫時期を知らせてくれるのが太陽の運行であり、これを見て農事の指導を行う人を「日知り」と言い、これが「聖(ひじり)」の語源であるという説もあります。
春分の耕作開始前に太陽に五穀豊穣を願い、収穫時期の合図である秋分に太陽に感謝するという在り方が弥生時代からあったのだと想像できます。
彼岸のもととなったと考えられる「日の願いは、そういった習慣が由来であるとも考えられますし、何時もお天道さまが見ている、お天道さまに恥じないように、誠実に生きていくという在り方が当然とされていた日本独特の感性は、以上のような太陽に対する信仰がもとになっているのかもしれません。
日本の国旗は日の丸であり、今でも太陽と縁が深い国ですが、それは伊勢から淡路までの東西を貫く太陽の道が示すように、古代の世界から連綿と続いてきたものだったといえます。
太陽への信仰の文化の起源を知るには縄文時代にまで時を遡らなければなりませんが、それはまた、別の機会にしようと思います。
さて、北緯 34度32分の太陽の道のお話を簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
今回はすべてをカバーすることはできませんでしたが、そのライン上には太陽祭祀に関する場所がまだまだたくさんあります。ご興味がございましたら是非ご自身で探ってみてください。
この太陽の道に対する解釈は様々あると思いますが、古代の人々の世界観を知るにあたって、大きなヒントになるのは間違いないと思います。
それでは、今回も古代への旅にお付き合いいただきありがとうございました。
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