天皇家の十六菊花紋の起源に迫る。シュメール、ユダヤ、秦氏との関係性は?

日本の皇室の紋章である菊花紋章。日本における菊の紋章の歴史は長いですが、日本の菊花紋に類似する紋章が、古代のシュメール文明の発掘物や、エジプトの王墓からの出土物、イスラエルのエルサレムにあるヘロデ門などにみられ、シュメール文明の系譜にある古代の王家と、日本の皇室に深い関連があるのではないかという言説が数多くあります。

 

今回はその真偽に迫るべく、先入観を捨てつつも、シュメール文明にはじまる西アジアの菊花紋に酷似する王家のシンボルと、日本の菊花紋章の歴史を整理し、その関連性を考察していきたいと思います。

 

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シュメール、メソポタミア文明

 

現在確認できる中で、菊の紋章らしきシンボルの世界最古の例はシュメール文明のものです。

 

それを示す一つの逸話があります。

 

イラン・イラク戦争の際、サダム・フセイン大統領が日本の十六菊家紋に酷似する指輪をしており、あるヨーロッパのジャーナリストが、日本の皇室の家紋と似ていることを指摘したところ、フセイン大統領はこう答えました

 

「この紋章は、イラクの祖先が世界最古の文明を築いたシュメール王朝時代に用いていた王家の家紋だ」

 

その逸話にあるように、シュメール時代の円筒印章の粘土版には「十六菊花紋」と酷似する図柄が見られます。

 

 

シュメール地方とアッカド地方からなるメソポタミアの統一を果たした、アッカド帝国のナラム・シン王の戦勝記念碑の上部に太陽か星と思われるものが三つありますが、その放射数が16であり、十六菊花紋に似ていると言われています。

 

Victory stele of Naram Sin 9068.jpg
By Rama, CC BY-SA 3.0 fr, Link

もう少し時代を下って、メソポタミア文明において、初めて全オリエントを支配下に治め、世界帝国となった新アッシリア帝国の時代のレリーフをみても、サルゴン二世の腕輪や、アッシュルバニパル王の腕輪、冠、服に多数の十六菊花紋のようなものが描かれています。

 

 

Sargon II and dignitary.jpg
右、サルゴン二世

 

 

Ashurbanipal II, detail of a lion-hunt scene from Nineveh, 7th century BC, the British Museum.jpg
Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 

その新アッシリア帝国の後に、メソポタミアの覇権を握った、新バビロニア帝国のイシュタル門にも王の象徴と考えられるライオンと共に、十六菊花紋に似ている図柄がいくつも描かれています。

 

Babylon detail1 RB.JPG
CC 表示-継承 3.0, リンク

 

 

このように、日本の十六菊花紋に似たシンボルは、シュメール文明からメソポタミア文明において、王朝が入れ替わっても、権力の象徴として連綿と受け継がれていたようです。

 

古代オリエントの世界では、神の代理として世を治めるという、神権政治が行われていたので、神から権力を授かったことを象徴するシンボルだったのかもしれません。

 

といっても、中東には菊がなく、古代オリエントの世界においては、太陽や星を図柄にしたものと考えられるので、日本の菊花紋との繋がりは、形状が似ているだけとも言えます。

 

まだ断定するのは早いので、両者の関連性の結論を急ぐ前に、他の文明のケースも見てみましょう。

 

古代エジプト文明

 

古代エジプト文明においては、、約3300年前のエジプトのツタンカーメンの王墓から出土した青銅器や、約3000年前のプスセンネス1世の王墓から出土した金の皿も十六菊花紋に似たシンボルが見られます。

 

 

 

エジプトの場合は、このシンボルはハスを表したものと考えられており、古代のエジプトにおいて、ハスは太陽の出ている時間にだけ花が開くので、太陽の象徴であり、創造と再生の象徴ともされていました。

 

王の再生を願って、ハスの副葬品をお供えしていたと考えられます。

 

ユダヤ王国

 

次に、イスラエルでも十六菊花紋に似たシンボルが見られます。

 

例えば、紀元前1世紀にユダヤ王国を統治し、エルサレム神殿を大改築した功績があることで知られるヘロデ大王のお墓に十六枚の花弁の模様が描かれています。

 

 

 

また、十六世紀まで時代は下りますが、エルサレムがオスマン帝国の支配下にあった時代に築かれたヘロデ門にも、十六菊花紋とそっくりのシンボルがあり、このヘロデ門は花の門とも言って、現在も残っています。

 

 

Herods Gate Jerusalem.jpg
By Herwig Reidlinger – taken by Herwig Reidlinger, CC BY-SA 3.0, Link

 

他にも、まったく同じシンボルが、ユダヤ教徒の礼拝所であるシナゴーグにもみられ、ユダヤ教にとって重要なシンボルであることが分かります。

 

シュメール文明の系譜にあるといえるユダヤ文化も、シュメール由来の王家のシンボルを受け継いでいたと言えそうです。

 

 

日本の菊花紋の歴史

 

さて、最後に日本の菊花紋の歴史を辿ってみましょう。

 

そもそも菊花紋が使われるようになる以前は、日月紋が皇室の紋として使われていたと伝えられています。

 

 

宮内庁HPより

 

日月紋とは、太陽と月を組み合わせた紋で、金の丸が太陽、つまり天照大御神、銀の丸が月、つまり月読尊を表わし、古来の日本の自然崇拝の象徴ともいえる紋章です。

 

現在でも天皇の即位式には十六菊紋と併せて、「日像纛旛」、「月像纛旛」という大錦旗が使用されています。

 

その金の丸、銀の丸の紋章は遅くとも7世紀頃には既に使われており、藤原京時代のものと推定されている高松塚古墳などの東西の壁に太陽を示す金の丸、月を示す銀の丸が描かれていたり、現在の日本の国旗の日の丸の原型が大化の改新の時代からあったように、まん丸の円が日本古来の馴染み深いシンボルといえ、十六菊花紋の模様は日本古来のものとは考えにくいです。その理由を説明する前に、菊花紋の歴史を簡単に整理します。

 

菊花紋が皇室の紋章として用いられるようになったのは、諸説ありますが、一般的には鎌倉時代初期の後鳥羽上皇の頃からといわれています。

 

Emperor Go-Toba.jpg

後鳥羽上皇は菊を好んだことで知られ、歌人としての才能を発揮するなど、文化人としての性格があった一方で、鎌倉幕府に対しては強硬な路線を採っていました。

 

そして後鳥羽上皇は、1221年、時の執権の北条義時に対して、討伐の兵を挙げます。日本史上初めて、朝廷と武家政権の間で起きた争いとして知られる、あの承久の乱です。

 

その際後鳥羽上皇は、自軍の士気を鼓舞するために、みずから刀を鋳造し、それに十六弁の菊紋を毛彫りしたといいます。

 

結局、後鳥羽上皇は大敗し、隠岐に流されることになりますが、その後、後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇が、自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋が皇室の紋章として定着していきました。

 

その一方で、菊花の紋章は、皇室からの下賜もあって、武家・神社仏閣・商標などでも使用されるようになり、江戸時代においては様々な菊花のデザインを用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなどして、全国各地に広まっていきました。

 

 

高台寺蒔絵-Sake Ewer (Hisage) with Chrysanthemums and Paulownia Crests in Alternating Fields.jpg
CC0, リンクによる

 

明治時代になると、32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が公式に皇室の紋とされるようになります。戦後になると菊花紋を皇室の紋と定めた皇室儀制令が廃止されたため、菊花紋章を天皇・皇室の紋章と定める法律はありません。しかし、慣例的に天皇・皇室の紋章や日本の国章に準じる紋章として、菊花紋章が用いられ続けています。

 

日本の在外公館の玄関には今でも戦前から引き続き、菊花紋章の浮き彫りが飾られており、日本のパスポートの表紙にも、厳密には皇室の十六葉八重表菊とは異なりますが、十六菊が描かれています。

 

さて、菊花紋の歴史を簡単に振り返ってみましたが、皇室の紋とされるようになった菊という花は、実は日本由来のものではありません。菊は7世紀から8世紀頃に、中国から伝わったとされています。

 

それを示すように、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された万葉集には、150種をこえる植物が登場しますが、菊は一切出てきません。菊が出てくるようになるのは平安時代前期の『古今和歌集』、中期の『源氏物語』などからです。

 

菊は高潔な美しさが君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子とされ、平安時代には、陰暦9月を菊月と呼び、9月9日を「重陽の節句」「菊の節句」とし、邪気を払い、長命を祈るために菊酒を飲む「菊花の宴」が行われていました。

 

その菊酒の慣習のルーツもまた中国であると考えられ、3世紀の魏では菊酒は神仙の飲み物と謳われていました。

 

そういった時代の流れの中で、前述したように、菊は後鳥羽上皇にとりわけ愛され、皇室の紋章として取り入れられていきます。

 

また、十六菊花紋に似た出土品として最古のものは、平安京の朝堂院跡から出土した軒丸瓦です。

 

大澤寺HPより

それには、十六枚の花弁を持った花が描かれてあり、花の種類はハスと考えられていますが、十六菊花紋と酷似していることが分かります。

 

朝堂院とは、皇位継承に際して行われる宮中祭祀の大嘗会などの、国家の最重要儀式が行われた場所でした。そのため、平安時代にこの紋章と皇室が大きく関わっていたことは確かなようです。また、平安京といえば、高度な技術力と財力を持った渡来人の秦氏が、建造に大きく関わっており、このデザインは秦氏が伝えたものという可能性も考えられます。

 

この秦氏は謎が多い一族ですが、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に大陸から百済を経て日本に帰化した氏族であり、 秦の始皇帝の末裔にあたる、弓月君が代表的な人物とされています。

 

始皇帝は中国人離れをした外見であることが伝えられていたり、秦氏は辿っていけばユダヤ系という説や、中国の秦王国は中央アジアのバクトリア王国の一部勢力の亡命王国という説もありますが、そのような説を検討するまでもなく、中国が統一される前の戦国時代において、秦は中国の一番西側に位置していたこともあり、中央アジア方面、いわゆる西域と何らかの形で接点があったことは十分に考えられます。

 

バクトリア王国があったバクトリア地方は現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部であり、紀元前4世紀のマケドニア王国のアレクサンドロス大王の東征の後、そこに従軍ギリシア人の一部が住み続け、紆余曲折を経て、ギリシア人による国家、バクトリア王国が興ります。

 

 

Greco-BactrianKingdomMap.jpg
, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 

一方、始皇帝のお墓にある兵馬俑は、一部の専門家の間ではギリシア文化の影響があると考えられており、実際に中国北西部の遺跡で出土した人骨からはヨーロッパ人のDNAが確認されています。

 

Xian museum.jpg

つまり、バクトリア王国に入植していたギリシア人がさらに東へ進み、中国へ行き着き、何らかの形で秦に帰化していたとも考えられるのです。

 

ここで何が言えるかというと、シュメール文明を基盤としたオリエント文化はギリシア文化に踏襲され、それがアレクサンドロス大王の東征によって、東へと伝わることになり、秦の始皇帝の時代には既に中国にも伝来していた可能性が高いということです。

 

そして、始皇帝の末裔と言われている秦氏が、オリエント文化を日本に伝え、その中に十六菊花紋に似た王家のシンボルも含まれていたことも十分に考えられますし、その一つが平安京の朝堂院跡で出土した軒丸瓦だったのかもしれません。

 

そのデザインがのちに、後鳥羽上皇によって菊にあてはめられ、十六菊花紋が誕生したと考えれば、仮説として十六菊花紋が成立するまでの経緯が説明できます。

 

 

ただ、この仮説の弱点は、秦氏が既に3世紀頃に帰化しているとされており、平安京の建造は8世紀のことで、その500年ほどの間のものとして、十六菊花紋に似た発掘物はまだ確認されていないということです。また、秦氏が菊の紋を使用していたという形跡も見られません。

 

秦氏説とは別に、そもそも菊花紋は、皇室の紋章として定着する前は仏教の天台宗の紋章だったという説もあります。

 

実際、現在の天台宗のシンボルも、十六菊花紋に三つの星をあしらったものであり、総本山の比叡山延暦寺の紋は、菊に仏教の法輪を重ねた図柄です。

 

天台宗HPより
比叡山延暦寺公式Twitterアカウントより

 

天台宗は中国から伝わった仏教の一派ですが、3つの星は三諦もしくは、三台を表わし、三諦は天台宗の中心教義の三つの真理を意味し、三台は中国の星座体系において、天帝を囲む3つの星の意味でした。

 

天皇家でこの菊の紋が使用されるまでの経緯は、日本天台宗の開祖、最澄が比叡山で採取した16弁の菊の花を桓武天皇に献上したことが始まり、という伝説があり、三つの星は天台宗が皇室を守護する役割を表すといいます。

 

この伝説がどこまで定かかは不明ですが、これが正しければ、十六菊花紋は鎌倉時代初期の後鳥羽上皇より前の平安時代において、既に天皇家で用いられていたことになり、朝堂院跡の軒丸瓦の模様とも繋がります。

 

いずれにしても、天台宗も中国から伝来したもので、十六菊花紋の図柄も中国由来という可能性も捨てきれません。

 

以上のように、秦氏説、天台宗説を取り上げましたが、どちらにしても、もとを辿っていけば、オリエント世界の王家のシンボルと日本の十六菊花紋は繋がりがあるという仮説は成立しそうです。

 

しかし、あくまで仮説であり、仮説が正しいとしても、これだけの理由で、日本の皇室がユダヤやシュメールと直接関係しているとは考えにくく、ただ単に、シュメールに始まるオリエント世界の王家の紋章が、中国を経由して日本に伝えられ、紆余曲折を経て、皇室の家紋として採用されるようになっただけと思われます。

 

ちなみに、この16という数字の意味の解釈はここでは触れませんが、『ガイアの法則』という本に書かれてある解釈が、個人的に面白いと思いますので、興味のある方は読んでみてください。

 

 

今回のテーマは十六菊花紋でしたが、この紋章に関しては、他に色々な説があると思います。他の説や、関連する面白いお話がございましたら、コメントで共有していただけると幸いです。

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