縄文時代の海の道ー中国、ロシアにまで広がっていた驚異の海洋交易ネットワーク
今回は縄文時代における、驚愕の海洋ネットワークについてお話します。
一般的に縄文時代といえば、狩猟採集することで生きていたというイメージが強いと思いますが、それだけでなく、海を経由して、集落間で海洋交易を行っていたことでも知られています。
その海洋ネットワークは現在の日本列島の全域にとどまらず、朝鮮半島やロシアのほうまで広がっていたことが判明しています。
それでは、具体的に、どういったものが、どのように運ばれていたのかを見ていきましょう。
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翡翠が示す交易ネットワーク
当時の海洋交易の実態を知る手がかりの一つとして翡翠が挙げられます。翡翠はその美しさと貴重さゆえに古代の日本では珍重されていましたが、その始まりは約7000年前の縄文時代前期後葉にまでさかのぼることができるといわれています。
翡翠は日本列島全域の縄文遺跡で発見されていますが、実は、現在の新潟県の糸魚川市でしか採れません。それが加工された形で、沖縄から北海道まで、日本列島全域に広がっていったのです。つまり、交易のための海の道は、すでに縄文時代に完成していたのです。
糸魚川周辺の長者ヶ原遺跡や寺地遺跡からは翡翠の加工工房も発見されており、そこで勾玉などに加工され、日本全国に広がっていったようです。
沖縄では、祝女と呼ばれる神職者が首から勾玉を下げる伝統があり、現代まで受け継がれていますが、古来から使われてきた勾玉の一部は、翡翠製だったようです。
不明 – 岩波書店「沖縄文化の遺宝」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる
日本だけでなく、朝鮮半島でも糸魚川産の翡翠の勾玉が発見されています。
5世紀から6世紀にかけての新羅、百済、任那の勢力圏内で、大量の翡翠製の勾玉が出土しており、新羅の宝冠や耳飾などに、翡翠製の勾玉が多く使用されていたようです。
この翡翠はどこから来たのかという議論がありましたが、アジアでは日本以外ではミャンマーでしか翡翠が採れないうえに、最新の化学組成の検査によって、朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、日本から朝鮮半島に伝播したことが明らかとなりました。
中国の『後漢書』には「倭では、真珠と青い玉が採れる」と記されてあり、『魏志倭人伝』には「(卑弥呼の死後に女王となった)壱与が、魏に、2つの青い大きな勾玉を献上した」と記されてあります。
また『隋書81巻 列伝46には「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と記されていますが、その珍しい文物には、翡翠製の勾玉も含まれていたと思われます。
このように翡翠は、日本では5000年以上珍重され、大陸との交易品としても用いられてきましたが、徐々に翡翠文化は衰退し、奈良時代を最後に、いったん日本の歴史から姿を消すことになります。
しかし、その後、約1200年もの時を経て、1939年に糸魚川における現地調査によって、翡翠の産地が日本にも存在していたことが証明されたことで、忘却の彼方から救い出され、2016年には翡翠が日本の国石として認定され、今に至ります。
黒曜石が示す交易ネットワーク
翡翠だけでなく、黒曜石もまた、当時の交易ネットワークを知る手がかりとなります。
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黒曜石とは、火山岩の一種、ガラス質の岩石で、叩いて割ると、鋭い刃物になります。石器時代から弥生時代に鉄器文明が広がるまでの長い間、その切れ味の良さから、石器素材として使われていました。
黒曜石の成分は産地によって異なるので、蛍光X線分析法を使えば、産地を突き止めることができます。
伊豆諸島の神津島産の黒曜石が、関東や中部地方の内陸部の遺跡からも出土しているので、当時の人々が、世界でも特に強い海流とされる、黒潮を横断するほどの航海技術を有していたことになります。
翡翠が沖縄にまで運ばれていたように、佐賀県腰岳の黒曜石も沖縄に運ばれていたこともわかっていますし、朝鮮半島にも運ばれていました。
また、隠岐の島産の黒曜石は朝鮮半島にとどまらず、ロシアのウラジオストク周辺からも出土しています。
それは、紀元前1500年~2000年頃の遺跡ですが、隠岐の島と、ウラジオストクの間は広大な日本海が広がっており、直線距離で1000キロも離れています。それを3500年以上前の人々が舟で渡って、交易していたというのはただただ驚くほかありません。
このように大陸との交易も活発だったようですが、国内ではもっと盛んに交易がおこなわれていました。
例えば、最近、世界遺産に登録されることが発表された青森県の三内丸山遺跡では、六百点以上の黒曜石が出土していますが、その産地は十八ヶ所もありました。
北海道や秋田県、新潟県の佐渡島、長野県の霧ヶ峰などから、黒曜石が集められていることからも、紀元前4000年頃から約2000年もの間、青森で栄えた三内丸山遺跡は当時の東日本の中心のような場所だったといえると思います。
また、三内丸山遺跡の縄文人たちはどうやら中国との繋がりも持っていたようです。というのも、中国大陸で発見された円筒土器とそっくりな土器が、4000年前の三内丸山遺跡の地層から出土しており、決定的な証拠とは言えませんが、中国との交易もすでに行っていた可能性が高いと言えると思います。
中国との繋がりを暗示するのは、青森の三内丸山遺跡だけではありません。
山形県にある縄文後期の三崎山遺跡からは、約3000年前の殷時代の青銅製の刀子が、同じく山形県の縄文中期の中川代遺跡からは、甲骨文字のような記号が刻まれた有孔石斧が発見されています。
このように、縄文時代早期から既に海の道の整備が始まっており、縄文時代後期には日本列島全土だけでなく、中国大陸との交易ネットワークを完成させていたとみることができます。
弥生時代から古墳時代にかけての日本の発展の基礎は縄文時代に作られており、大陸の文化を取り入れるスピードが早かったのもその環境が既に整っていたからこそでしょう。
縄文人の丸木舟
最後に、当時の縄文人たちが航海する際に使っていた舟がどんなものだったのかをみていきましょう。
それは最もシンプルな形の丸木舟であり、日本での丸木舟の発見例は200例ほどあります。
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現時点で判明している最古の舟は、千葉県市川市の貝塚を主体とする「雷下遺跡」で発掘された、約7500年前の丸木舟です。発見された舟はムクノキをくりぬいた丸木舟で、全長約7.2メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチでした。
このような丸木舟で本当に広大な海を渡り切れるのかを検証する試みもあり、当時の丸木舟を再現し、台湾から与那国島に渡るということも行われました。
こういった丸木舟で縦横無尽に移動して旅をしながら、集落間や大陸の人々とも交流していたことを思うと、当時の縄文社会の臨場感が増すのではないでしょうか。
縄文時代といえば、対人用の武器が見つかっていないうえに、大規模な争いの痕跡もない、世界でも稀な、非常に平和的な社会であったことで知られていますが、出土品からもわかるように、集落間の交易は盛んであり、このような平和的な交流が広域にわたって何千年もの間続けられたことは、奇跡的だと思います。
それは現代での貿易とはまた様相が異なるもので、当時は共通貨幣に当たるものはなかったので、物々交換のようなものだったのかもしれませんし、贈与経済的なものだったという説もあります。
黒曜石は実用的なものですが、勾玉は全く実用性はないです。しかし、それが全国各地で見つかるということは、贈答品のようなものだったのかもしれません。
また、万葉集でみられるように、「タマ」という言葉には古来から魂という意味が込められており、舟で遠路はるばる自分たちの集落に来た旅人に、自身の魂の一部として勾玉を渡し、仲間であることの象徴として持ち合っていたとも考えられます。
八尺瓊勾玉が三種の神器の一つとされているように、勾玉は古代の日本文化にとって非常に重要であったことがうかがい知れますが、それは以上のような縄文時代からの文化があったからではないでしょうか。
縄文時代の文献があるわけでもないので、何とでも言えますが、その分、いろいろな想像ができるので、縄文社会に思いを馳せるのは楽しいと思います。